ゆうひのプロフィール

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ズキーーーーーーン!!

「!!!!?」

ある日の仕事帰り、40を超える人生で初めて感じる、これまで感じたことない痛みがお腹と背中に突如襲ってきました。

「こ。。これは、ヤバいヤバいヤバい!絶対ヤバいヤツ!!」

とハッキリ分かるほどの強烈な痛み。
あまりの痛さに吐き気まで襲ってくる。

「な・・なにコレ。盲腸⁉結石⁉」

それまで大きな病気をしたことがなかったわたしには、
そんな病名しか頭に浮かびませんでした。

脂汗が滴り落ちてくる。
あまりの痛さで立っていられない。

目の前にあったドラッグストアになんとか辿り着いて、店員さんに「なんか・・すごい痛みが走って・・今の時間で開いてる病院知ってますか」と聞いたら、なんと、速攻で救急相談窓口に電話してくれたんです。

「救急外来なら○○病院が開いてます。すぐ向かった方がいいですよ。」

とのことだったので、わたしはある日突然、
人生で初めて救急窓口へ向かうことになったのでした。

【突然の病魔】1人で生き抜く力が絶対に必要だと悟る


日頃、わたしは幸いなことに、生理痛が起こることが無かったんです。

それなのに、この救急窓口へ行くことになった1か月前に、シクシクと下腹の痛みと共に生理がきたことがあったんです。

珍しいな?と思いながら、生理が終われば痛みも消えるだろうと思っていたら、案の定キレイさっぱり痛みは収まりました。

しかし。それから1週間後。また少しづつ下腹のシクシク感が出てきたと思ったら、その痛みはズキズキ感に変わっていきました。

痛み止めを飲んで、一日中痛みを我慢しながら仕事をこなすような状態になり、これは何かオカシイ・・さすがに病院にいかなきゃダメかな・・と思っていたら、

突然、これまで感じたことのない衝撃的な痛みが下腹に走り、冒頭の状態になりました。

救急窓口に向かった後、何度も吐きながら、レントゲンやらMRIやら、初めて行う検査を一通りやった後、ようやく原因が分かるかと思えば、

その時の先生が内科の先生ではなく、「う~~~ん。尿検査も問題ないし結石でもないし、盲腸でもないし、改めて明日他の先生にも相談してみますので、1度このまま帰られてください。」と言われ、

「病院に来て検査だけして帰らされるとか、そ、そんなこと、ある!?」と思いましたが、仕方ありません。何も対処されることなく一旦その日は帰宅することになりました。

そして、翌日「病院」から直接電話が掛かってきました。

そして言われた一言に、さらにびっくり!
入院準備を整えて、今すぐに病院にきてください。

わたしはすぐに「にゅういん」という言葉がすぐに飲み込めませんでした。なんせ、それまで病院とは縁が無い人生だったから。

病院に再度伺ったところ、「産婦人科へ行ってください」とのこと。

「は・・・?産婦人科!???
盲腸とか、結石とかじゃなくて???」

頭の中は完全にクエスチョンマークだらけ。
あの内診台に、まさか乗ることになろうとは・・。

そして産科の先生からエコーを見ながら言われた一言。

「うん。ほら見える?エコーに何も写ってなくて真っ黒でしょ。」
捻転してるね。
「明日手術するから、入院と手続きしてください。」

「ねんてん・・・?????」

なんと診断名は「卵巣のう腫茎捻転」という、
今までに聞いたことも無かった卵巣の病気でした。

簡単に言えば、卵巣が大きく腫れてしまい、その重みで根元がねじれてしまう現象でして、そのまま完全に捻じれたまま放置すると、卵巣に血液が届かなくなってしまうため壊死を起こすので激しい痛みを起こすんです。

対処法は、手術でその壊死した卵巣を切り取るしかありません。

人生で初めて「全身麻酔」を体験することになり、あれよあれよと入院、手術、退院まで
バタバタの5日間を過ごすことになったのでした。

なんというか、この体験は人生で一番衝撃を受けた出来事でした。

突然、いきなり50万以上の医療費が請求され、高額医療制度なんて使うとも思ってないから、3割負担とはいえ、一旦は全部払わなくてはならなくて、高齢の母親に頭を下げることになりました。

この出来事があってから、「突然、何が起こっても生活が確保できる力が、絶対に必要だ。」と痛烈に感じることになったのでした。

その後、今度は突然の「頚椎椎間板ヘルニア」を発症して、2か月間痛みとの格闘が続いたこともあり、もう自分が若くないことやいきなり生活の基盤が無くなることがあるということがあることを目の前に突きつけられて、

わたしは「自力で稼ぐ力を身に着けるしかない!!」と強く決意することになったのです。

幼いころからあった「自立して、生きる」ことへの思い


こんにちは、初めまして。
ご挨拶が遅れました。

ゆうひ」と言います。

この記事では、わたしの価値観と理念をお話していきます。

日頃から発信を追ってくれている人、たまたまこのページを開いた人でも、わたしがどんな思いを元に発信しているか、知っていただけたら嬉しいです。

わたしには、上に2歳上の兄と9歳下に弟がいるのですが、兄は17歳の時に大事故を起こしてから
今に続くほどのリハビリが続き、

弟は1歳の時に大事故に合い、これまたリハビリにつきっきり・・

しかも、今は亡き祖母は、脳卒中で倒れて介護が必要な状態で、昔から家族や子どもに無関心な父親と全てを任せられていた母親。

そんな家庭環境だったので、健康優良児だったわたしは、ほぼ教育に関して放置状態になっていました。

「勉強しなさい」とも言われたこともなく、高校受験についてさえ三者面談するまで、一言も何も言われたことがなかったくらいです。

兄や弟から連絡がくればすぐに迎えにくるのに、わたしが連絡してもなかなか来てくれなくて待ちくたびれて、トボトボ歩いて5キロ先の自宅へ歩いて帰ったり、

みんなが塾に行ってるから、わたしも行きたいと言っても、そんなお金はうちには無いから無理と言われて諦めたり。

もっと自分のことを見てほしい。そんなわがままなんて、とても言える状況ではありませんでした。だから自分のことは自分で全てできるようになって、1人で生きていかなくちゃと強く思うようになっていきました。

その思いがあるせいか、わたしは集団の中にいることがとても苦手です。他の友達とも話が合わないから、自然に「浮いてしまう」んです。

そんな家でも学校でも放置状態のゆうひは、いつしかその状態に慣れて、図書室でいつもお気に入りの本を読みふけったり、

漫画を書いて投稿してみたり、一眼レフを購入して旅をしながらその風景を切り取って写真コンテストに応募して見たり、1人でも自分を表現することができる方法を模索していました。

俗にいう「陰キャ」というヤツですね。

わたしはずっと「自立して、生きる」ことをずっと目指してきたんだ。それをはっきりと自覚したのは、わたしが大人になって、高校時代の同窓会に参加したときでした。

9割近くの人は、すでに結婚して子供も生まれてて、人によっては4人も子供がいるという人までいました。

話すことといえば、どうしても「旦那が~」とか「子供が~」とか、家庭の話にどうしてもなります。家族に囲まれ、守るものができたその人たちの姿は、一般的な「女性の幸せ」の姿そのもの。

だけど、その人たちの姿を見た時に「その姿になりたいとは思えないな・・。」と痛烈に感じたんです。

この時からわたしは、独身で生きていくことを決意しました。

わたしがなりたい姿は「誰かに頼って生きるのではなく、自分の力で生きていく」ことなんだとハッキリ悟ったからです。

「生きる力」を求めて人生最大の失敗をした

自分の持つ知識や技術だけで生きていける術。それをわたしはずっと求めてきました。

30歳を越えた頃、手に職をつけて生きていくために、半年で、ある国家資格を取ることができて、その資格を活かす職場に転職することができ、「これで順風万風に一生食いっぱぐれることはない」と思っていました。

でも、それが地獄の始まりでした。

「百聞は一見に如かず」ということわざがある通り、いくら国家資格を持ってても、あくまで試験は決められた問題を解くだけ。

現場はイレギュラーだらけだからそれに対応しなくてはいけなかったり、その場で瞬時に判断しなくてはいけなかったり、作業スピードと質を同時に求められて、

とてもじゃないけど試験に通っただけの、名ばかりのプロでは、とても太刀打ちできるものじゃなかったんです。

周りが簡単にできていることが自分には難しくて、なんとかついていこうとしたけど、実力がつく前に朝7時から深夜2時までのハードワークも相まって、次第に心の方が壊れていきました。

人ってメンタルがやられると、普段当たり前にできることができなくなるんですよ。

簡単に読める漢字が読めなくなるとか簡単な計算ができなくなるとか覚えられることが少なくなってすぐ忘れちゃうとか。

そうなると、もう分かりやすく負のループに入るんですよね。

「もうこんな状況から解放されたい・・」
「もう、楽になりたい・・」

最終的には、そんな思いしか頭に思い浮かばなくなり、自○寸前まで追い込まれました。それはある人に決行寸前に止められて、結局未遂に終わったのですが。

それがきっかけで、期間の定めの無い契約をする代わりにどれほどキツイ労働でも文句の言えない正社員ではなく、

時間がきっかり定められた非正規雇用で働き、副業で稼ぎながら脱サラするための道を探すことにしました。そもそも子どもの頃からの「陰キャ」の性格も、上手くいかなかった原因でした。

そのためわたしは、「陰キャ」でも文章だけでやり取りできる、ネットの世界に「自立」の道を模索し始めたのです。

「陰キャでも稼げる」ネットビジネスとの出会いと可能性を見つける

なにげなくネットサーフィンしていると、あるブログが目に留まりました。

父母娘2人の家族で世界中を旅をしながら、体験記のブログを書き、その収益で生活しているというブログでした。

わたしはこのブログを見て、「わたしもこんな風に、住む場所や時間に縛られない自由な生き方がしたい。」そう、思いました。

30代前半の同窓会で、おそらく大半の人が思う「幸せな姿」に全く共感できなかったわたしが、この家族の姿を見て強烈な憧れを抱いたんです。

そこから「ブログ 副業」とか「脱サラする方法」とか「稼げる方法」などを調べまくる日が始まりました。

せどり、転売、メルカリ、ポイントサイト・・
色々出てくるけど、どれもピンとこない。

ある時、物々交換時代から始まっている「お金のしくみ」について書かれた記事を見つけました。

そこには「紙幣とは、ただの価値との交換券だ」という話が書かれていました。これは、ただ「稼ぐためにはお金を増やせばいい」と思っていたわたしには、衝撃の事実でした。

その記事を読んで一度はすぐに離れたのですが、どうしても記事を書いた人が気になり、その人のプロフィールやセールスレターを読んで、「ぜひ、この人から学びたい」と、あるビジネスコミュニティの扉を叩いたのでした。

そこはGoogleアドセンスで稼ぐ方法を教えているビジネスコミュニティで、毎日何千文字もの記事を投稿し審査を通して、「ネットでビジネスをして稼ぐ経験」を初めて体験して、「本当にネットだけで稼げるんだと感激したことをよく覚えています。

2年間ほど在籍し、月3万までは収益を出すことができましたが、3ヵ月に1度行われるGoogleのコアアップデートに記事で、記事をいくら書いても検索結果に表示されなくなり、サイト自体が収益化不可能になったことで、ブログで稼ぐことへのモチベが消え去ってしまい、全ての仕組みを壊してしました。

1年後、ふと思い立ってもう一度ブログを立ち上げて収益化しようとしたら、何を書いても何記事書いても審査に落ち続けてアドセンスの審査に通らなくなっていました。おそらくは、度重なるルール変更で、わたしが知っている手法はもう使えなくなってしまっていたんですね。

これ以上続けてもブログでの収益化は難しいと判断して、Googleアドセンスで収益化することは諦めて、今はプラットフォームを変えて再チャレンジ中です。

Xコンテンツビジネスで再チャレンジ


わたしは今、Xの情報発信ビジネスで、「自立して、生きる」ことを目標にして、「売る力」を身に着けるためにメンターに学びながら、わたしの理想の世界を構築するために発信活動をしています。

わたしの目指す「理想の世界」とは、

お互いを束縛しない同じビジョンを志している人たちと、自立したしがらみのない世界で自由に生きる。」というものです。

それを実現するために、「たとえ全財産が0になっても復活できる、1人でも生き抜ける力を身に着けたい」。

この思いに共感してくれる人と一緒にビジネスをしていきたい。

冒頭でお話したような病魔に襲われようと、たとえ全財産が無くなろうと、「人を集めて商品を売る力」があれば、どこでも生きていけるし、どこからでも再スタートできるし、自立して場所や時間に縛られずに自由に生きていけます。

お互いに自立して稼ぎながら、協力が必要な時に助け合う。そんな人と、一緒にビジネスしていきたい。そんな人たちと人生を一緒に歩めたらどんなに幸せだろう。

わたしが目指すのはこんな世界です。この理想を実現するために、わたしは今、情報発信をしています。

なにか、このプロフィールを読んで感じるものがあれば、DMでも公式LINEでもいいので、メッセージをいただけると嬉しいです。

わたしの長いプロフィールを
ここまで読んでいただきありがとうございました!

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